房総半島から徒然ブログ

住みにくい世の中を出来れば笑って暮らしたい、寛容でおヒマなかたのみ歓迎の気まぐれブログです。

下宿部屋の主たち

旧き良き横浜

渋谷と横浜を結ぶ東横線という私鉄路線に白楽という駅がある。
僕の通っていた大学に近い小さな駅だったが、商店街には一通りの店と映画館まで揃っていた。飲んで終電を逃した夜はこの場末の映画館のオールナイト営業で一晩を過ごし、朝の電車で帰宅したものだ。同類の不良学生や学生運動家などもいて、高倉健のヤクザ映画の夜は結構賑わう。
健さんのセリフに「異議なーし!」、スジの通らない組長には「ナンセーンス!」などと、スクリーンに掛け声が飛ぶ騒がしい夜であった。

名作・網走番外地

名作・網走番外地

学生には必須の大衆食堂も数多く、そのひとつに「山形屋」という山形県出身のご夫婦が営む店があった。山形出身の自動車部仲間が足しげく通っていて、何年か前の同期会の折に訪ねた時はきれいに改装して営業しておられた。今どうされているのか。
同期の仲間はほとんどが地方出身で、大学周辺で下宿暮らしをしていた。
わざわざ遠方から入学するほどの大学かね、それとも横浜好きか、あるいは金持ちの息子で仕送りタップリ? いや、そんな連中じゃない、どう見ても。
関東の人間なら地元の大学へというのが常識なので不思議に思い聞いてみると、何とほぼ全員が奨学金をもらっているではないか、成績優秀とも思えないのに。奨学金応募は地方では常識なのだとか。いやいや、東京の高校の先生はそんな事を教えてくれなかったし、考えたことも無かった。返済不要の奨学金まであったなんて、、悔しい。
地方では自宅通学できて学力に見合った大学というと首都圏ほど多くないだろうから、下宿も止む無しということか。

懐かしのおでん街

懐かしのおでん街

彼らの暮らしはと言うと、大抵は風呂無しトイレ共同、四畳半か6畳ほどの間借り生活である。大家さんの家の2階の部屋を借りるというスタイルも多かった。月の家賃を聞くと1畳当たり1,000円くらいが相場だとか、今では考えられない住宅事情である。
東京に住んでいた僕は遅くなるとこれら同期部員の部屋を回り、雑魚寝の一夜を過ごした。
キャンパスに近い下宿から順に訪問し、不在だと東京方面に歩きながら次を当たる。スマホなど世にない時代である。ある夜、1時間歩いてもねぐらが見つからず、ある先輩の部屋を訪ねることにした。この人は3畳の部屋暮らしと聞いた覚えがあり不安だったが仕方ない。
確かに3畳の部屋は何にでも楽に手が届く見事な空間利用だが、テレビが2台もある。狭いのに無駄でしょと言うと、1台は映像だけ、もう1台は音声だけなので必須だと、なるほど工学部の学生は合理的です。
先輩に妙な趣味のないことを祈りつつ、テレビ台の下に足をつっこみ身を寄せ合って眠りに落ちるのだった。
振り返ってみると、当時の大学は学生運動で相当に荒れてはいたけれどそれも一面に過ぎず、学生たちは個性的に多様な生活を送っていた。画一的に恵まれた今と比較するほどにそんなふうに感じられる。