追悼の8月 August of Sorrow
日本の8月は盆の月、悲しみの月でもある。
77年前の広島、長崎への原爆投下、そして敗戦。
黙とうを捧げながら、甲子園の高校野球に熱狂する。
歴史的な悲劇と今ここにある危機や憤怒が混じり合って、どこかアンバランスな暑い夏を今年も迎えた。
Remember JAPAN AIRLINE Flight 123
さらに、生乾きの悲劇として毎年思い出すのは1985年8月12日に起きた日航機墜落事故だ。
月曜日、羽田空港を18時過ぎに離陸したJAL123便は1時間足らずで大阪伊丹空港に着陸するはずだった。
当時、IT企業で東京勤務だった僕は、まだ仕事中だった夜7時過ぎのオフィスで「日航のジャンボ機が行方不明になった」という一報を聞いた。急いでテレビをつけると全ての局が緊急速報を流している。翌日からは大量の詳細情報が溢れ、墜落事故の詳細が次々に明らかになって行く。
乗員乗客524人、死亡者520人という未曽有の大惨事だった。
僕の会社の社員が4名も乗っていることが判明したが、その報道された氏名の1人はよく知っている人物だった。
入社時の東京で僕の初めての上司。営業のイロハを一から教えてくれた辣腕の課長で、当時は取締役候補として関西の営業部門を統括していた。
当日は東京本社での会議を終えて大阪に戻るところで、同便に乗った他の3名も同じ会議からの帰阪組だった。さらに、満席だったためキャンセル待ちで乗れず、幸運にも新幹線で帰阪した社員も複数いた。
事故をうけて社内に支援チームが作られて何人もが交代で現地に派遣された。
群馬県の山間部に墜落した機体は破壊炎上していて、比較的軽度の損傷だった機体後部から4名の女性だけが救出されたのは奇跡としか言いようがない。
そんな状況だったので、支援チームというのは現地で遭難者家族を支え、遺品、遺体の確認をすることが役目だったと後で聞いた。所属企業からの現地支援のない個人も当然ながら沢山おられて、隔てなく手助けせずにはいられなかったという。
一時安置所となった地元の体育館に次々と運び込まれてくる遺品や遺体を確認して回るご家族に付き添うとは一体どんなものだったのか、想像もつかない。帰任した支援チームの中には心を病んでしまったメンバーもいたらしい。
使われた体育館は腐臭が消えず解体処分になったと聞く。
DNA検査などない時代、暑い夏、どれほど困難で過酷な作業が必要だったことか。
後日読んだ山崎豊子さんの小説「沈まぬ太陽」は、企業人の悲哀と不条理、アフリカのこと、事故の周辺など、当時の記憶と我が身の事情を生々しく蘇らせて胸に迫る。
僕の元上司は歯の一部が見つかり、本人と確認がされた。
横浜近郊の寺での告別式に多くの仲間と共に参列した。
良く晴れた暑い日で、見上げる高い空の雲間を飛行機が西に向かっていた。