房総半島から徒然ブログ

住みにくい世の中を出来れば笑って暮らしたい、寛容でおヒマなかたのみ歓迎の気まぐれブログです。

初めてのヨーロッパ旅行 準備編

Dear Friends ;

Sorry guys, only in Japanese here.
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今更の、はじめの一歩(その1) - 旅と今昔語りの徒然ブログ (hatenablog.jp)

念願の旅へ

 1992年7月。

サラリーマン生活の宿命で、北陸の古都・金沢に単身赴任していた。
外資系企業勤務のメリットのひとつとして、長い夏休みが取りやすい傾向が上げられる。赴任3年目のその年、営業職としては結構な無理を通して夏の休暇を取り、かねてからの思いを果たすべくヨーロッパへの旅を敢行した。
僕の計画にははっきりした目的があり、そこに妻の希望を重ね合わせると市販のツアープランでカバー出来ないことは分かっていた。
そこで、金沢・香林坊のHIS営業所に出向き、日程とルートを告げて出来るだけの手配をお願いした。
依頼したのは成田から北回り航路でローマに入り、フランクフルトから成田に戻るオープンジョーの航空券、ローマ、ナポリルクセンブルグマンハイムのホテル、そしてローマからルクセンブルグまでの寝台列車予約だった。

エーデルワイス

往復航空券とホテルは難なく取れた。寝台列車丸善で買ったトーマスクックの時刻表を頼りにあたりをつけて、エーデルワイス号という国際列車の個室寝台が予約できた。
このロマンチックなネーミングの列車でロマンチックな奴に出会ったことで発生したひと騒動はのちほど。

もうひとつ、絶対に手に入れたいチケットがあった。
これは日本では覚束ないため現地での購入がベスト。幸いなことにルクセンブルグ在住の友人がおり、お願いしたらあっけなく買うことが出来た。
ルクセンブルグを旅程に入れているのはそのチケットを受け取るためでもある。
これで日本での準備は万端整い、あとは現地で移動のレンタカーと近距離の鉄道切符を駅で買えば良い。

今回の旅程をザックリ書くと、まずローマで数日滞在、ナポリに鉄道で南下し数日滞在して再度鉄道でローマに戻る。ローマから夜行寝台列車で北上しスイス、フランスを通過してルクセンブルグで下車し数日滞在。ここからはレンタカーを借りて目的地であるドイツのマンハイムまで走り、車はここで返して週末を過ごす。あとは電車移動の繰り返しで最終滞在地のフランクフルトへ、そこから空路成田に戻るという12日間の旅だ。

なぜマンハイム

ドイツ南西部に位置し、フランス国境からそう遠くないマンハイムは人口30万人を超え、幾重もの古い城壁に囲まれた学園都市だ。ここからライン川沿いに20kmほど南下するとホッケンハイムという人口数万人の静かな町がある。ここは僕にとっての聖地のひとつであり、おそらく町の人口を超える観衆が世界中から集まるイベントが7月26日に開かれるのだ。
ホッケンハイムリンク、1932年にオープンしたこのサーキットで開かれるF1グランプリをこの目で見る、生のアイルトン・セナ・ダ・シルバを見る、それが旅の最大の理由だった。
毎年夏は夢のF1ヨーロッパラウンドのシーズンで、本当はイタリアグランプリを見たかったのだが日程が合わずドイツグランプリを選んだ。友人に頼んで手に入れたプラクティスから決勝までの、日本で買えばプラチナ感満載の通しチケットはしかし、大丈夫かコレ、と思うほどチープな紙切れだったが。

イタリアへ

仕事以上の情熱で旅の手配を終え、くれぐれも不在中にトラブルを起こすなとヤンチャな部下たちにくぎを刺し、うるさ型の顧客には帰国後の丁寧な対応をお約束して回り、上司の顔色を精査して休暇届けを素早く出し、スマホなど世の中に無い良い時代だったのでホテルのFAX番号を連絡先に残し、事実上連絡不能の2週間の旅に出た。

話せば長~い旅なので、何回かに分けて書くことにして、次回はイタリア編。
北回りでロシアのモスクワ近郊シェレメチェボ空港でトランジットして、ローマのフィウミチーノ空港に着いたのは夜も遅く、ホテルまでタクシーを使うしかない時間だった。
イヤな予感がした。

ホテル前の古い町並み

ホテル前の古い町並み