房総半島から徒然ブログ

住みにくい世の中を出来れば笑って暮らしたい、寛容でおヒマなかたのみ歓迎の気まぐれブログです。

クルマのある風景 2

巡り巡って

クルマに関わる記憶は2輪でも、4輪でも山のようにある。
これまでの人生で乗り継いで来た車たちの事、ナイトラリー、大学時代の定番バイトだった陸送屋でのかなりブラックな体験、特殊用途車両製作とその輸出、そして中でも記憶に残るのはオーストラリアでのソーラーカーレース参加だ。

大学卒業後の就職先としては車業界を選ばなかった。選びたくなかったと言ったほうが正しい。趣味として好きなクルマ関係を職業に選ぶ気にはどうしてもなれなかった。「中途半端なハマり方だった自分の限界を分かってたんだろ」と、ニヒルに言う心の声も聞こえるが。
それでも自動車部員として立場上のお付き合いで某大手トヨタディーラーと面接した。その場で生意気にも「クラフトマンシップを感じないクルマの売り手にはなれません」とほざいた事がある。青臭い若僧がまあよくも言ったもんだと、思い出すたび冷や汗だ。
「技術の日産」がサファリラリーに参戦して実績を上げていた時代で、トヨタは「技術よりマーケティング」、万人受け狙いの販売上手で車は凡庸、そんな印象に支配されていた。
しかし両社の今を見ればその差は一目瞭然、トヨタは世界に冠たる見事な会社です。

卒業後の進路には、今で言うIT業界を選んだ。それも外資系を選んだのは、いつかは海外へ出たいという欲求への近道だと考えたからだ。
それから紆余曲折の仕事遍歴を経ての30年後、沖縄の海に面した特別自由貿易地区という日本初の本格的な貿易特区で、特殊用途車両の製作工場開設と操業に携わることになった。

メイドイン沖縄のクルマに興味津々の元・県知事

メイドイン沖縄のクルマに興味津々の元・沖縄県知事

それは製造業の基盤整備という宿願を持つ沖縄県からの企業誘致に応えたものだったが、離島という地理的ハンデを抱えての県外市場開拓は挑戦の連続で、いろいろな意味で刺激的だった。本州の人間から見れば沖縄というのはすでに充分海外であって、ここからさらにオーストラリアやアフリカとの縁が始まるなどとは想像もしていなかった。

当時、沖縄のある工業高校の生徒たちが自作のソーラーカーでオーストラリアの大陸縦断レースに挑もうとしていた。挑戦好きの虫が頭をもたげ、疼いた。僕は所属していた会社を口説き、社長を含めた3人の支援チームを結成して、2年に1度開かれるそのレースに参加した。2011年10月のことだった。